ここ数年、今まで以上にたくさんの歌集を読む機会に恵まれたのですが、お菓子がまったく出てこない歌集はあまりないことに気づきました。お酒はなくてもお菓子はある。一首はある。
それだけお菓子というものは、現代人の生活に必須のものなのでしょう。
私自身の生活を振り返っても、毎日なんらかのお菓子をいただいているように思います。でも、毎食時に決まって食べるとか、三時のおやつは欠かさないとか、そういう習慣はないし、私の周囲でもそういう大人は少ないように感じます。何かの折にちょっと甘いものをいただく。お菓子との接点はそんな感じが多いのではないでしょうか。
何かの折。
でも、それはいったいどんな時なのか。考えてみると、ほっとしたり気分を変えたりしたい時なのかな、と思い至ります。仕事で行き詰った雰囲気をリセットしたい時、長い労働を終えて緊張を解きたい時、休日ののんびり感を満喫したい時、友人と気の置けない感覚を共有している時。そんな折に私はお菓子を欲しているように思うのです。要するに私にとって、気分をより陽気にしてくれるもの、それがお菓子なのです。
柿の実のあまきもありぬ柿の実のしぶきもありぬしぶきぞうまき
正岡子規『竹の里歌』(俳書堂、一九〇四年)
お菓子の歴史を紐解くと、「菓子」とは昔は果物や木の実のことを指す言葉でした。そもそも「菓」という漢字は果実の意味で、今でも果物のことを水菓子と言ったりします。お菓子を現代のように庶民も日常的に口にするようになるのは、機械による大量生産が可能になった大正期以降のこと。子規のこの歌には果物を楽しむ醍醐味が表されています。大量生産のお菓子と違い、水菓子には実の個体によって味のムラがある。食べてみなければわからない味。そして、一般にはいいとされる甘い実よりも渋い実に喜ぶ心を示しました。病身の子規に柿を贈った天田愚庵への返歌として知られる一首ですが、柿を好物とした子規ならではのこだわりが感じられます。
子規は、食べすぎたことにより医師から摂取を禁じられたほどの柿好き。柿は病床の子規の日々を少しでも明るくするものだったのでしょう。
目を開けていられなくなりハチミツの飴玉一個ひたすら舐める
原田彩加『黄色いボート』(書肆侃侃房、二〇一六年)
つらさを和らげることは、現代社会でも、私たちがお菓子に求める役割の一つであるようです。
「目を開けていられな」いほど肉体や精神を酷使した時間を過ごす。その辛苦を少しでも減らすために、「ハチミツの飴玉一個」を「ひたすら舐める」のです。「飴玉」は簡単に携帯できるお菓子だからこそ、いつもお守りのように持ち歩いているのかもしれません。そう思うと、「ハチミツ」のやさしさと「ひたすら」の必死さがない混ぜになって、祈りのような切実さが迫ってきます。お菓子には過酷な時間を少しずつ溶かしてくれる陽気さもあるのです。
特急券を落としたのです(お荷物は?)ブリキで焼いたカステイラです
東直子『春原さんのリコーダー』(本阿弥書店、一九九六年)
ピンチの切羽詰まった感覚を和らげるお菓子の効果は他者にも及びます。
「特急券を落とした」ということは、普通は買い直さなければならない。きっと高額なのでしょう。なのに、この歌は鉄道の乗務員さんなり駅員さんも「仕方ないですね、カステイラをお持ちなら!」とかなんとか言って、陽気に特急券を再発行してくれそうな雰囲気があります。単なるカステラではなく「ブリキで焼いたカステイラ」だからこそ魅せられてしまう。そのことがこの理屈に適わない感覚を生むのですが、確かにそういった不思議な力すらお菓子にはあるのです。周囲の人間をも陽気にしてしまう巻き込み力が。
黄の箱の森永ミルクキャラメルの白いエンゼル水運ぶ途中
河野裕子『家』(短歌研究社、二〇〇〇年)
不思議な力と言えばこの歌からも感じます。
「白いエンゼル」とは「森永ミルクキャラメル」の「黄の箱」の中央上部に描かれたトレードマーク。羽を広げた天使がMの字を提げて飛ぶ様を「水運ぶ途中」と表現しているのですが、なるほどそう見えてくるから不思議です。「途中」という言葉によって、これまでも継続され、これからも続いていく感覚を得られます。「黄の箱の森永ミルクキャラメル」が登場したのは、お菓子の大量生産が可能になった大正時代、一九〇四年のこと。以来、今日まで同じデザインの箱で売られているロングセラーとなっています。一世紀以上の時空を超える力をエンゼルから感じる時、私たちが生まれる前や生き抜いた後の世界があることに改めて思い遣ることができる。あたたかな思い遣りも陽気さの根底にはあるものです。
失恋の〈われ〉をしばらく刑に処す アイスクリーム断ちという刑
村木道彦『天唇』(茱萸叢書、一九七四年)
陽気さの対局に位置するように思える「刑」。なんと、自分を罰するためにもお菓子は使われます。
「アイスクリーム断ちという刑」がどこまでつらいものなのか、それは「失恋」を上回る苦しみなのかは人によるのですが、一般には耐えることは可能な刑罰のように思えます。アイスクリームというお菓子の中でも嗜好性の高いものを断つということは、もしかしたら禁酒や禁煙と同様の難しさはあるのかもしれませんが、「アイスクリーム」の持つ陽気さが「〈われ〉」を確実に「失恋」から救ってくれそうな気がします。「刑に処す」ことの引き換えに得られるものは、刑期が明けたらアイスクリームを食べることができるという希望。そんなかわいい希望に「失恋」を落とし込むことで、自分自身を救うことができるのもお菓子なのです。
さなぎには戻れなくても遠足のおやつ話で渋滞抜けて
岡本真帆『落雷と祝福』(朝日新聞出版、二〇二五年)
もはや普遍的とも言える「遠足のおやつ話」。
小学生の頃、上限金額が決まっている中で、遠足にどんなお菓子を持っていくかは大きな悩みであり楽しみだったことを思い出します。どこまでが「おやつ」として認められるのか。そのルールは曖昧で、それだけに遠足のおやつ選びは知恵の絞りどころだし、目立ちたがり屋さんにとっては個性の発揮しどころでもあります。おやつ=お菓子だと考える時、例えばバナナはおやつなのか。菓子パンは食事なのか、おやつなのか。ビーフジャーキーはどうなのか。柿の種は。と話は尽きません。大人になっても答えが出ない議論だからこそ、「さなぎには戻れなくても」いつまでも陽気に話せる話題なのでしょう。時を止めてしまう力もお菓子にはあるようです。
二〇二六年、私は今年もお菓子と、それから短歌とともに時を刻むのでしょう。私は陽気が好きです。お菓子が私を、周囲の人々を陽気にしてくれるなら、お菓子の力を借りて生きていきたい。みなさまにとって、それぞれの明るさで良い一年になりますように。
吠えてくるホットチョコレートが好きで冬と折り合える年だった
小野田光「かばん」二〇二二年十二月号
プロフィール
小野田光(おのだ・ひかる)
東京都生まれ。「かばん」会員。第三十九回現代短歌評論賞、第二回BR賞、二〇一八年東京歌壇(東直子選歌欄)年間賞受賞。第六十四回角川短歌賞佳作。