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会員エッセイ

2023/12/01 (金)

【第27回】 涙活     河野小百合

 近ごろ新聞や雑誌を読むと朝活、推し活、妊活など以前にも増して○○活が多く見受けられるようになった。面白い現象だなと思いつつあまり私には当てはまるところが無いと思っていたのだが、無意識にしていたのが涙活であった。情動の涙を流すことで自律神経が整い、ストレスを解消するというものである。頻繁にはじめたのは母が亡くなった2018年ごろからで、私の場合はクラシック音楽を聴きに行くことが涙活になっている。

  コンサートマスターのその相槌にわたしの呼吸も整いてゆく     『雲のにおい』
                       
 心地よい緊張と期待。私が演奏者のひとりになったかのように、コンサートマスターの相槌を受け、音楽のなかに溶け込んでゆく。ここでしか聴く事のできない一回きりの演奏をこの日の空気と共に味わうのである。
 演奏を聴くには音楽堂の良さも大切だと思う。いくつか好きなホールがあり、そのひとつが八ヶ岳高原音楽堂である。コロナ禍となって遠出が出来なくなった時も、自家用車で行ける範囲にあり幸いであった。名前の通り八ヶ岳連峰や秩父連峰をのぞむ高原にある。ピアニストのスヴャトスラフ・リヒテルと作曲家武満徹のアドヴァイスで建築家吉村順三が設計をした。
 音楽堂の天井は落葉松、壁や床はチークや米松などが使われていて心地よい香りにリラックスする。窓から見える森や山々の景色が素敵だが、殊に珍しいのは舞台の背面がピクチャーウィンドーで、移ろいゆく景色とともに音楽を味わうことができる。演奏をしている最中に風が落葉を吹き上げ、雲が茜色を帯びてゆく光景に趣があり、歌を作りたくなることしばしばである。また、250席という小さなホールだから演奏者との距離が近い。
 仲道郁代のピアノや千住真理子のヴァイオリンなどここで多くの演奏家の努力の結晶を聴かせていただいた。

  果てしなくまわりつづけるさびしさは子犬のワルツ 風邪薬(エスタック)飲む     『雲のにおい』

 ショパンの繊細な旋律や甘美なハーモニーを聴きながら楽しかった情景を取りとめもなくめぐらせる。そして演奏が琴線に触れるといつしか涙が流れはじめるのである。幾つかの歌の仕事を終え無理をして来てよかったと思う瞬間である。私がよく演奏会に出かけることに、何がいいのと友人に聞かれたことがある。即答したのは形がないこと。突き詰めて考えた事はないが目には見えない感覚の世界に浸る喜びであろう。
 聴くたびに巧みになることに驚かされるのは千住真理子のヴァイオリン。ヴィターリのシャコンヌと聴くだけで涙腺が緩むが、演奏がはじまると切なく華やかなメロディーと超絶技巧に魅了される。同時に細い体に似合わない腕から肩にかけての筋肉の動きに釘付けになる。

  E線を弾きつつくらく筋肉をもりあげてゆく中年の肩     『雲のにおい』

 彼女はこの舞台に立つためにどれだけ練習を重ねてきたのであろうか。その練習の成果がクラシックの場合手に取るように分かるから恐い。いえ、楽しい。聴きながら私の怠惰な性格を反省することしきり。そして、アンコールが終わるころには心持ちがすっきりとしている。楽器を弾くことは出来ないけれど、私には短歌という表現方法があることを思いまた前を向く。



プロフィール
河野小百合(こうの・さゆり)
1963年山梨県生まれ。「みぎわ」代表。上野久雄に師事。第6回歌壇賞受賞。
歌集『私をジャムにしたなら』『マリアのいない夏』『雲のにおい』

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