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会員エッセイ

2025/05/01 (木)

【第44回】不勉強の言い訳   上條雅通

 いわゆる歌壇の動向とは関わりなく、私は歌を作ったり読んだりしてきた。先日、若い仲間から、「○○の歌集読んでないのですか。△△の歌集は?」と最近話題となった若手の歌集を上げて問われてしまった。苦し紛れの私の答えは「人によっていろいろだろうが、私の場合、例えば、上田三四二、島田修二、あるいは宮柊二、こういった人の歌集を開くことで何とか生きてきた。自分が読みたいもの、必要としているものを読む」である。要は不勉強の言い訳である。
 最近は同世代や、上下の世代の歌集を少し積極的に開くようにはしている。そして、成熟した彼らのすばらしい作品と出会っている。ただし、そのとき、私を魅了する歌の豊かさに比して、自分の歌の貧しさを思い知らされるのがちょっと辛い。また、その作品に接した喜びを語る言葉、評論の言葉を持たないことに忸怩たる思いを抱くことにもなる。「作文」はずっと苦手なのだ。しかし、優れた歌集に出会うと、「ああ、短歌に関わってきて良かった」と喜び、せめて眼高手低を目指そうかと思う。

 もう8年も前になるが、『文語定型』という歌集を出した。後輩から「喧嘩売ってるみたいですね」と言われたが、ただ、自分の拙い作品にそのタイトルをつけて安心したかっただけである。中身は、生活の中に拾った小さな感懐を綴った平凡な作品である。それでも、丁寧に読んで感想を寄せて下さる方がいたこと、面識のない2人の大先輩から応援の葉書を頂いたことがうれしかった。
 私が短歌を始めた場所では文語旧仮名で作ることが普通だった。そして短歌が好きになった理由の一つが、文語表現への興味と親しみである。だから、今でも文語旧仮名を、意識して使っている。
 現在、文語の使用について、いろいろな声が聞こえてくる。「コスプレのようだ」「一般の人々に背を向けている」「化け物ではないか」などである。それらは当たっているのかもしれない。自らを振り返ってみれば、文語旧仮名を羽織って、精神貴族を気取り、「呪言の果て」の詩型を弄んでいるわけである。
 もう少し厳しいのは、今、私が「文語」と呼んでいるものは、正しい意味で文語ではなく、「似非文語」あるいは「文語の顔をした口語」だという指摘である。古典乙Vで終わっている私には反論もできない。21世紀の現在にも、ちょっと古めかしい言葉を使って作る短歌があることをゆるしてほしいと願うばかりである。もっとも、私の使う文語など伝統に則った正しい文語ではないのだろう。ただ、それに近づこうと努力したいと思う。文語の使用は選択ではなく態度だと思っている。
 なお、完全に現代語で表記も当然現代仮名遣いの歌は、実は嫌いではない。現代語が57577という定型を通過して、どんな詩が生まれてくるのかを見ている。切れとか軽妙さというよりは、現代語のひたむきさを感じさせる歌が好きである。また、文語新仮名の歌には、きっぱりした爽やかを感じている。そこには、歌人として、より能動的な人が多いと感じている。

 さて、良い機会だから私の作歌を振り返ってみた。それは至極単純なことだった。生活の中で、あるいは旅の途次、折々心をよぎる何かがある。それは何なのかを考える。その時、五感は何を感じていたか、それまでの心はどう動いていたかを振り返ってみたりする。この時、写実という手法が役に立つ。
 短歌に於いて写実とは何かを論じる準備は今はない。ただ、写実は、詩(広義の意味で)の才の乏しい私にとって、私の言葉を詩の言葉にしてくれる大変ありがたい手法であることに最近気づいた。芸術の根本は視覚をはじめ五感を以て、対象を把握することだからかと、ひとり納得している。
 もちろん、いろいろな歌の種類には、モノにつくのではなく、上から下へ感情や思索の言葉で読み下ろす歌もある。右へ左へ思いを捩るように綴るものもある。「調べ」とか「音楽性」といわれる短歌の一側面を強く意識させる歌である。よく、作品について「具体がない」という批評を耳にするが、短歌にとって最も具体的なものとは、音と意味、そして文字という形象を持つ「言葉」ではないか。特に「うた」という名を負ったこの形式には「音」は大切なモノだと思っている。
 そうは言いつつ実作の場では、やはり写実は大切で、描写しようとし、そして、最近は流行らないようだが「単純化」を心がけている。
 
 いろいろ書いてきたが、私のやっていること、考えていることとは関わりなく、次の時代の短歌は現代の言葉による短歌から生まれてくると思っている。時々お声がかかる公募の短歌賞の選考に携わっているとその感が深くなる。まあ、そうやって変容しながら、短歌は生き延びてきたのである。

 最近、短歌のことを「古典詩型」などと呼んでみたりしている。学問的裏付けなどない勝手な思いつきの名付けであり、人には勧めないが、短歌について考えたり語ったりするときに私の思いに近い感じがする。実は、かつて読んで、長く忘れられない一文がある。

 短歌は根本的に古典であつて、それが新しく作られたものであつても、古典と言ふ立場を全然捨てゝは、短歌の鑑賞が成り立たないのである。たとひ、現代の詩として読まれてをつても、それが持つてゐる古典性が、短歌か短歌でないかを定めて来るのであるから短歌らしさと言ふ処にある古典性だけは、どうしても除外して考へる訳にはいかぬ。(折口信夫「短歌論」『全集16巻』)

 昭和25年の、慶応義塾大学の通信教育用のテキストにある文だが、戦後の社会主義運動のうねりの中の短歌を見てのことか、その後に来る短歌の変容を察知しての言葉か。折口の危機感のようなものを感じる。現代に対して有効ではない文かもしれないが、私はもう少しこれにつきあってみようと思う。


プロフィール
上條雅通(かみじょう・まさみち)
1954年生まれ。東京都出身。1976年、「人」短歌会入会。1993年、「人」解散に伴い「笛」の会に入会。現在「笛」発行人。歌集『遠街の音』、『駅頭の男』、『文語定型』。日本歌人クラブ幹事。

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