今年は、久しぶりに動いている。6月に歌集『空耳の町』(六花書林)を刊行し、8月には雑誌「jaja bibi」を創刊した。『空耳の町』は11年ぶりの単行歌集。お互いにまだ20代の時に出会った宇田川寛之さんのお力をお借りした。ていねいなお仕事で一冊を仕上げてくださった。「jaja bibi」は橋みずほとの短詩型ユニットによるもの。ふたりの誕生月である2月と8月に発行していく。
20代のころから、短歌、俳句、そしてまちづくり(NPO・市民主体のまちづくり)に関わってきた。いずれも身体の奥に潜んでいる何かに形を与えようとする営み。ずいぶん長い時間が経った。振り返ってみると、楽しい時間だったと思う。その理由は、余白と未完というキーワードからこれらに向き合えばいい、と実感しながら関わることができたからだろう。協働ということも意識してきた。短歌と俳句についていえば、作品は読者がいてはじめて成立する、つまり読者との協働。
今回は、自作を読者の立場で読んでみたい。作者と読者の一人二役による協働である。
なつくれと読むのだろうかひっそりと置かれていたるきみのノートに
歌集『空耳の町』の巻頭の一首である。一首は「なつくれ」ということばからはじまる。「なつくれ」って何だろう。おそらく、そうではない。「なつくれ」が提示されているようでいて、実際には、「なつくれ」と読んでしまった、あるいは読もうとしているだけ。「なつくれ」という音が浮かび上がるが、その音に対応する文字や意味が確定されず、しかも「読むのだろうか」なので、「なつくれ」と断定していない。「だろうか」と自身に問い返している。つまり、一首は冒頭から未決定の状態がつくられている。
一首は二句で切れ、三句以下へ接続する。「ひっそりと置かれていたるきみのノートに」。三句以下は2つの読みが可能だ。「置かれていたる」で切るか切らないか。切らずに、「置かれていたるきみのノート」と読むのが自然なのかもしれない。しかしここでは、切って読んでみたい。すると、「ひっそりと置かれていたる」で一旦場面が止まり、「きみのノートに」と続く。この読みでは、一首のなかに2つの空白ができる。1つ目は「なつくれ」が何なのかわからないことを示し、2つ目は何が置かれていたのかを一瞬宙吊りにする。この読みは、いわば作者が残した文法上の余地に読者が自らの呼吸を入れるそれといえるが、一首により広がりを与えるように思う。
ノートは、本来、書くための場所、書かれたものがある場所。しかしこの一首では、ノートに書かれているものが読めない。書かれているのに、読めない。「ひっそりと」とあるように、普段は知ることのできない「きみ」の内面に触れてしまった、しかし、その瞬間に現れたことばは理解できない。「きみ」が何を書いたのか。なぜ「なつくれ」と読めるような文字を書いたのか。本当に「なつくれ」なのか。それは何を意味するのか。どれも確定せず、確定しないまま一首は終わる。そのため、「なつくれ」という謎のことばは単なる判読不能な文字ではなく、「きみ」という存在の理解しきれなさそのものの象徴として読者に届けられる。
もう一度、「なつくれと読むのだろうか」に戻ろう。こういわず、読めない文字があった、でもよいわけだが、ここではこうした推量表現によって記述されている。「なつくれ」という具体的な音が提示されることで読者のなかでもそれが響き、意味がわからないのに音だけが残る。そのため読者は、解釈しようとして届かない経験を、一首を読みながら追体験することになる。ひとつのリアリティの作り方である。
歌集のタイトルは『空耳の町』。空耳は、聞こえたものが正しいとは限らないということ。しかし、だからといって聞こえなかったわけではない。「あとがき」には、「私の生まれ育った横浜・根岸は、けっして広くはない範囲に、丘と平地と海が同居している。その日常には、さまざまな時間が折り畳まれていて、そう、空間的にも時間的にも襞があって、ときおり思いがけない表情を見せてくれる。それゆえにこどものころから、いや私だけでなく親やその親たちも、空耳を聞いてきたのではなかったか。」とある。空間や時間の襞が豊かさを生み出す町、それが『空耳の町』。そんなタイトルを持つ歌集の巻頭がこの一首。一冊の読み方を示す、そんな一首なのだと思う。読めないものを、読めないまま読む。つまり、分からないものをすぐに意味へ変換しない、空白を不足や欠損として扱わない、分からなさそのものを現象として受け取る。そう、余白とは、何かを補って完成させるための空白ではなく、完成させないまま何かを存在させ続けるための、そしてそれを大切に育むための空間のことなのだ。
すこし書き過ぎたかもしれない。作者の立場からいえば、こんなに多くの理屈を抱えて一首をつくっているわけではない。しかし、一首の形になると、不思議といろいろなもの/ことを抱えることになる。それが短歌の魅力なのだと思う。そしてまた、確定した実体よりも、その周辺に生じる気配やずれ、隙間といったものを表現することに優れた短歌という形式に惹かれ、私は長い間関わってきたのだとも思う。
プロフィール
吉野裕之(よしの・ひろゆき)
1961年生まれ。短歌を「桜狩」「個性」に、俳句を「桃滴舎」「琅■」(■:王偏に干)「槐」に学ぶ。2026年8月、「短詩型ユニット jaja bibi」を始動。歌集に『空間和音』(砂子屋書房、1991年)、『ざわめく卵』(砂子屋書房、2007年)、『砂丘の魚』(沖積舎、2015年)など。
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